現代の映画界に多大な影響を与えた『世界のクロサワ』と呼ばれる日本人監督をご存知でしょうか?
そう、黒澤明監督です。
この記事では、地球規模で映画界に影響を与えた黒澤明監督功績をご紹介したいと思います。
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黒澤明監督の生涯
黒澤明監督は1910年(明治43年)3月23日に生まれ、1998年(平成10年)9月6日に亡くなります。享年88でした。
その映画人生の中で手掛けた数多くの作品は制作手法、ストーリー、キャラクターを参考、模倣した海外の映画も多く、名作といわれる作品も少なくありません。
日本に限らず、世界の映画界に多大な影響を与え、世界の映画関係者からの評価が高いことから『世界のクロサワ』の異名がついたといわれています。
日本でもよく知られる代表作としては『七人の侍』が挙がるのではないでしょうか?
日本映画史、いや世界の映画史に残る傑作と言われ、この映画が後のスピルバーグ監督や名画といわれる作品に大きな影響を与えているのは間違いありません。
巨匠とされる黒澤監督ですが、はもともと画家を志し、プロレタリア美術研究所に通い、18歳で二科展入選、日本プロレアリア美術同盟に参加、岡本唐貴(漫画家・白土三平の父)に師事していたそうです。
1936年(昭和11年)に画家の道をあきらめ、26歳で当時のPCL(現:東宝)に入社。
山本嘉治郎に助監督として師事したことで彼の映画人生は動き始めました。
映画監督デビューは1943年(昭和18年)公開の『姿三四郎』という作品でした。
その後、1946年(昭和21年)公開の『わが青春に悔なし』、1947年(昭和22年)公開『素晴しき日曜日』、1948年(昭和23年)公開『酔いどれ天使』、1949年(昭和24年)公開『野良犬』と
社会派の作品を次々と発表しました。
世界のクロサワと呼ばれ始めるキッカケ
そんな黒澤監督作品が世界の脚光を浴びたキッカケは1950年(昭和25年)に大映(※ガメラシリーズなどを撮影した1971年まで存在した映画会社)で撮影した『羅生門』が1951年(昭和26年)にベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞、同年『白痴』、1952年(昭和27年)にベルリン国際映画祭上院特別賞受賞作品の『生きる』と名作を続々と発表し続けました。
1954年(昭和29年)に公開した『七人の侍』大ヒットし、同作で2度目のベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した経歴も持っています。
黒澤監督の名声はとどまることを知らず、
1957年(昭和32年)『蜘蛛巣城』
1958年(昭和33年)『隠し砦の三悪』
1961年(昭和36年)『用心棒』
1962年(昭和37年)『椿三十郎』
1963年(昭和38年)『天国と地獄』
と一度は作品名を耳にしたことがあるような傑作を次々に発表していきます。
そんな黒澤監督作品は監督本人を含む複数の脚本家によるストーリーの巧みさも魅力として好評で、監督自らが手がけた脚本の評価も高かったようです。
しかし、1965年(昭和40年)、重厚なテーマは同じながら娯楽性も有した『赤ひげ』を発表して以降作品の評価に否定的な見解が多くなったのは芸術性を追求した作品が見受けられたからでしょう。
世界のクロサワの世界進出
世界進出のキッカケがなかったわけではなく、 1966年(昭和41年)にハリウッドからオファーを受け制作を準備していた 『暴走機関車』という作品がありましたが制作方針を巡り、アメリカ側プロデューサーと対立、制作が頓挫してしまったそうです。 (後に黒澤監督の脚本を元に完成。1985年に公開されました。)
また、1968年(昭和43年)にオファーを受けた日米合作の『トラ・トラ・トラ!』ではアメリカ側制作会社(20世紀フォックス)と演出方針、撮影スケジュール、予算などを巡り激しく対立し、翌44年(1969年)に監督を降板させられたという惨劇も経験。
このショックは多大なるものだったようで、2年後の1971年(昭和46年)に自殺未遂をするというショッキングな事件を呼んでしまい、これ以降異様なほどにハイペースだった黒澤監督作品の発表はほぼ5年に1度とペースを落とすこととなりました。
黒澤明監督のターニングポイント
そんな黒澤監督のターニングポイントと呼ばれるのが、1975年(昭和50年)にソ連に招かれ、少数の日本人スタッフとソ連に入り完成させた 『デルス・ウザーラ』という一作です。
当時は閉鎖的だった社会主義国での制約のある環境で制作された『デルス・ウザーラ』は、これまでの躍動感ある黒澤監督作品とは真逆の静寂の世界を際立たせた作品でした。
そのため、日本では極めて低い評価でしたが、海外ではアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、黒澤監督が再び輝きを取り戻す大きなキッカケとなっています。
作品を貫く重厚なテーマは全作品にほぼ共通だったといえるでしょう。
しかしこの作品の前後では同じ<黒澤明>監督作品でも大きな違いが見受けられます。
この違いを確認する視点で作品を見比べてみても面白いかもしれません。
妥協なき黒澤明監督
映画撮影では、自身の持つイメージを忠実に実現することには決して妥協にない黒澤明監督
妥協しない意黒澤明監督にまつわるエピソードはいくつもあります。
・『七人の侍』では雨の激しさを際立たせるために、墨汁入りの雨を降らせる
・『天国と地獄』では背景に移りこむ民家の2階を撤去し、撮影後に復旧した
といったところが有名でしょうか。
黒澤明監督の完璧主義の影響で、撮影日数は凶長期化し、莫大なコストが必要となるようになってしまいました。
さらにコスト回収も確証が取れない状況となり、日本国内だけでは資金調達ができないというような事情も抱えていました。
そのような状況の中、黒澤監督は海外資本から資金を集め映画の制作を続けま。。
1980年(昭和55年)、ジョージ・ルーカス監督、フランシス・コッポラ監督を外国版プロデューサーに据えた『影武者』
1985年(昭和60年)、フランスと合作の『乱』
年号は変わり、平成を迎えても黒澤監督の追撃はとどまりません。
アメリカのワーナー・ブラザースの配給でティーブン・スピルバーグ監督の支援を受けて制作された『夢』を発表します。
1990年(平成2年)、長年の映画界への功績を認められ、アカデミー賞名誉賞を受賞するという輝かしい業績もあります。
この時はスティーブン・スピルバーグ監督、ジョージ・ルーカス監督がプレゼンターを務め、スタンディング・オベーションの中で受賞する黒澤監督の勇姿は183cmと長身の黒澤監督がより、さらに大きく見えたと数々の人の記憶に残っているようです。
しかし、最期を迎えるのは突然で1995年(平成7年)3月、『八月の狂詩曲』(1991年)、『まあだだよ』(1993年)に続く次回作に予定していた『雨あがる』の脚本を京都の旅館で執筆中に転倒して骨折及び脱臼により療養生活に入ります。
一時は回復したように見えましたが、1998年(平成10年)9月6日に脳卒中により死去。享年88でした。
黒澤明監督が影響を与えた映画監督
黒澤監督が残した作品たちに影響を受け、多くの映画関係者が黒澤監督を敬愛しているのはいうまでもありません。
巨匠スティーブン・スピルバーグ監督は新しい映画を撮る、撮影に行き詰まるといったターニング・ポイントで映画の原点を見つめ直すために必ず黒澤作品、特に『七人の侍』を観賞することがルーティーンとなっています。
このほかにも、 『蜘蛛巣城』の砂嵐のシーンのオマージュで、『未知との遭遇』のジープが現れるシーンを演出しています。
『用心棒』のワンシーンを活かして 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』 主人公が後姿のファースト・シーンを演出。
さらに『プライベート・ライアン』の乱闘シーンは『乱』の影響といわれています。
また、 フランシス・コッポラ監督の『ゴッド・ファーザー』の冒頭の結婚式のシーンは、『悪い奴ほどよく眠る』のオマージュ、 ジョージ・ルーカス監督は 『隠し砦の三悪人』から『スター・ウォーズ』シリーズの登場キャラクターたちのヒントを得て、『スター・ウォーズ4/新たなる希望』ではストーリーそのものがオマージュされています。 そして『荒野の七人』は『七人の侍』を時代劇から西部劇に置き換えた作品であることは有名です。
誰もが一度は名前を聞いたことのある有名監督のみならず、近年の作品でも『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』の合戦シーンに『七人の侍』からの引用、『ラスト・サムライ』にも黒澤作品がオマージュされているといわれています。
このほかにも黒澤監督を尊敬し、影響を受けた関係者はまだまだおり、新たな信奉者を生み続けています。
日本だけではなく世界の映画界への貢献を称して、映画監督としては初めて国民栄誉賞を受賞したのも他ではなく、『世界のクロサワ』こと黒澤明でした。
晩年になっても新しい撮影技術を取り入れていったという黒澤明は映画という世界に貪欲に向き合った『巨人』といっても間違いないでしょう。
まとめ
黒澤明監督の生涯と世界の映画界に残した功績をご紹介しました。
そんな黒澤明監督のデビュー作は、第二次世界大戦の真っ只中に公開された『姿三四郎』です。
この『姿三四郎』には、当時としてはまだ珍しかったスローモーションが採用され、世の中の人々を驚かせました。
この頃から、黒澤明監督の世界進出へのみちは始まっていたのかもしれませんね!
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